幸福の真理

まだ考えていた。
学生時代、通学の途上眠い目をこすりながら満員電車に詰め込まれに行く過程で、俺は誓ったはずだ。
みな一様に黒いスーツ姿で、ロボットのように無気力な目で無表情に駅の階段を登る蟻の群れ。
こんな非人間的な集団の一員には決して混じるまいと。
就職活動にあまり熱心になれなかったのもそんな潜在的な願望が心のどこかで消えることなく燃え続けていたからだろう。
結局、地元の零細事務所に拾われることになったが、結果として家畜運搬車に押し込められる日々とは無縁の社会生活を始めることには成功した。
しかしその事務所も数年で潰れ、はや7年。今やどうだ。
所得は当時よりほぼ倍増したが、結局俺も黒い服を来て、ロボットの目で蟻の群れをなしている。


もうたぶんこの先、かなりの高確率で、俺にしあわせは巡ってこない。
これは妄想でも思い込みでも何でもなく、純粋に客観的な現実に基づく未来予測。しあわせにつながる可能性があったはずの人生の伏線はもはやすべて潰え、今となってはその材料一つ残されていないのだから。
そのための努力を始めればいい、と言うのは鬱に冒されていない幸運な者の無責任な言い草だ。偽装請負[ http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/OPINION/20060113/227252/ ]が常態化した、評価も出世も無縁な搾取が蔓延する業界で、他に何ら糧を得る術を持たない一労働者が何を将来に期待すればいいと言うのか。
まさに使い捨て。
生きていてもしょうがないとさえ思うが、逃避行動すらもう面倒だ。


しかし考えれば考えるほど不可解なことがある。
俺の生活水準が世間的平均的に言って(明らかに負け組だとは言え)そこまで底辺に近いとは思えないのだが、他の奴らは一体全体、どうやって死にもせず鬱にもならず、のほほんと生き続けていられるのだろうか?
...まあ俺の周りには一昔前ではとても考えられないほど鬱患者・自殺者が多く、日本全体では今や一日平均100人が自殺していると言われているわけだが...それでも生き残っている奴のほうが圧倒的に多いわけで。
ごく一部の極めて恵まれた者以外、将来に不安を感じない者などあろうか。そして皆その不安を何らかの希望で打ち消すことで、どうにか生きているに違いないのだ。
なぜだ。どんな栄耀栄華も長くは輝かない。愛する者もいつか必ず死ぬ。この世の無常を克服できる唯一の若さという可能性への担保を失い、夢も希望も潰えてなお人は前向きに日々を過ごすことが可能なのか。最強伝説黒沢に登場した無宿者(自称ホープレス)たちのように、それでもなお生きて行くことへの悲壮な決意が必要なのか。奴らにあって俺にないものは何なのか。
考えるほどにドツボにはまっていく。
誰でもそうであるはずだ。同じような境遇の人間が同じことを考えれば同じことに思い至るはずなのだ。まったく不可解だ。...そしてネガティブな思考の渦は無限に回転していく。


そして無限の輪の中で、ついに一つの結論が導かれた。
奴らは、考えていないのだ。
それが意図的なことなのか、本能的に考えることを回避しているのか、考える必要がない、あるいは考える時間がないのか、はたまた考える能力がないのかはこの際関係ない。
自分が不幸であることに気づかなければ、彼の者は不幸ではない......しあわせについて考えないこと、これこそがしあわせの本質、幸福の真理だったのだ!


...それに気づいたところで今さら何になろう。
俺はもう考えてしまった。俺にできることはせいぜい、これ以上余計なことを考えないで済むように、毎晩パチスロに興じることくらいだ。
ひと頃は年収支+55万のピークを記録した戦果も、稼ぎ頭だったアラエボの人気が去り、回収台に回されたり撤去が始まって以来、まさに逆V字を描いて急降下を続け、すでに総収支はマイナス120万まで舞い戻った。
まさに、風前の灯。
色々な意味で。