幸福の哲学

日本のIT技術者の皆さん、幸せですか?[ http://slashdot.jp/askslashdot/article.pl?sid=06/07/13/1644222 ]
「地球幸福度指標」、日本は95位[ http://slashdot.jp/article.pl?sid=06/07/15/0634222 ]
もう長いこと、しあわせなどというフィーリングを抱いた記憶がない。
辛く厳しい状況のみをもってして不幸と呼ぶのではない。しあわせでない状態はそれだけで不幸を感じるに足る。
そもそも幸福度の客観的評価などというものは成立し得るのだろうか。アフリカの飢餓難民と比べりゃ恵まれているなどという評価は現実に不幸を感じている者にとって何の指標にもなりはしない。結局しあわせとは究極的に主観によってのみ判断されるのだ。
寿命を縮めるほど働いてしかし一代で財を成した大富豪と、賞罰なく凡庸に長生きして最期を家族に看取られた小市民とどちらが幸せか。そんなことは本人以外の誰にもわかりはしない。


最近しあわせについて考えることが多い。
しあわせの定義自体かなり不確かなものだが、仮に「持続的に充足した精神状態」と定義してみよう。すると、しあわせの姿には2種類あることが見えてくる。


ひとつには、社会的なしあわせである。社会的なしあわせとは比較によって生まれる。過去の自分を含めた比較対象たる他者に対する優越感である。
少年期から青年期にかけては自分自身の成長(肉体的、精神的、知性的、技能的その他諸々)を自己評価することでしあわせを得ることができる。また触れ得る社会が狭いため、自らの属する集団の中で、分野によっては容易に優れた自己を見出すことができるだろう。


もうひとつには、生物学的なしあわせである。比較によるしあわせとは逆に、自他の同一感がもたらす安心、気取った言い回しをして愛と言ってもいい。
乳児期から幼児期にかけては自他の識別能力に乏しいため、そもそも社会的なしあわせを意識することはない。母親を筆頭とした家族との同一感があれば簡単に満足を得ることができるだろう。


こどもの頃はしあわせだった、と感じがちなのはつまり、それだけしあわせが得やすい環境にあった、とみなすことができる。


では30もとうに過ぎた俺にとって、これから中年期以降のしあわせとは何か。
一般的世間的には、社会的しあわせは地位の確立により得ることができる。出世欲、名誉欲とはそれらしあわせの渇望に他ならない。
で、残念ながら俺にはその手の恩賞には縁がない。
生物学的には言うまでもない。自らの家族を成立させ、それを維持することだ。そのためにはモテ能力と甲斐性という大きな2つの力が要求されるわけだが、こちらも残念ながら俺にはまったく縁がない。


肉体的には衰えを見せ始め、あらゆる面で成長が頭打ちとなる。
社会的な視野が広がり評価眼ばかりが肥大する一方で、家族を含めた交友の密度は著しく希薄となる。
もはや背伸びしようもない自己との比較対象として、また同一感を得るための対象として、存在しうるものはもはや巨大な社会そのもの以外には残されていないが、それを求めたとて無論報われるはずもなく、永遠に劣等感と孤独感に打ちのめされるのみだ。


冒頭の例では前者は社会的なしあわせを得ることに成功し、後者は生物学的なしあわせを得ることに成功した。
俺はこの先何かを得ることができるのだろうか。
その見込みは今のところ全然ない。


ちなみに人生で一番しあわせを感じたのは、肌寒い朝にふと目覚めるといつの間にかふとんの中にねこが潜り込んでぬくぬく寝てた時かなぁ(´ω`)(遠い目)